現代の「ひじり」
たちが交感する
越境的ネットワーク・
プラットフォーム

この「uposatha(ウポーサタ)」は、
SBNR的
『Spiritual But Not Religious=
特定の宗教への信仰は持たないけれど、
精神的な豊かさを求める』
な感性を持つ人が増えている今、
現代の「ひじり」たちが僧俗を問わず、
性別や年齢、国籍や宗教、
社会的立場などの
あらゆる属性の違いを超えて
集い交感が生まれる
ネットワーク・プラットフォームです。

電話もインターネットもなかった時代から、インド中に散らばった修行者たちは相互にネットワーク化し、新月と満月の日に集まって各自の修行を振り返る会合を開いてきました。それが古代インドの言葉で「ウポーサタ」、日本語では「布薩(ふさつ)」と呼ばれます。そうした伝統にインスパイアされ、ここ「uposatha」では現代の「ひじり」が仲間と共に日々の生活を省みるための、オンライン上で行う「布薩ミーティング」をその中心活動に据えていきます。

「ひじり」は「聖」に由来します。『日本大百科全書』(五来 重)に「日本の古代仏教では、官寺・諸大寺に住む僧侶に対して半僧半俗の民間僧侶を聖とよんだのは、彼らが自らを「ひじり」と称したからである」とあるように、中世には念仏聖(ねんぶつひじり)や勧進聖(かんじんひじり)、遊行聖(ゆぎょうひじり)といったさまざまな聖がそれぞれにユニークな活動を展開していました。

『出家とはなにか』(佐々木 閑 著)によれば、出家とは、社会から離れた世捨て人のように生きることではなく、社会と緊密に関わりながら外にいて、なおかつ社会にもインパクトを与えることです。その意味で、権力や名声を求めることなく自他の抜苦与楽に励んだ聖たちは、立場を超越した真に出家的な生き方をしていたと言えます。

かつて、釈尊が「良き仲間がいることは、修行の半ばではなく、その全てである」と示されたように、学び励まし合う仲間を持つことは、仏道においてとても大切にされてきました。

家庭、学校、職場、地域など社会の枠組みに否応なく巻き込まれ、テクノロジーによってそのバブルにますます強くはまり込んでしまう分断社会の中で正気を保つためにも、現代のひじりとして「世界の中にありながら世界に属さない」あり方を、一緒に探求しませんか。


<僧侶の反省会、布薩>

初代案内人の松本紹圭です。布薩のお話をさせてください。

私が「布薩」を知ったのは、京都・法然院の「廣布薩(こうふさつ)」法要に参列させていただいたのが最初です。

法然院は浄土宗僧侶のための修行の場として建立された歴史からか、かつて「廣布薩(こうふさつ)」として年に一度、僧侶が集って日頃のあり方を問い直す法要が営まれていたそうです。色々な経緯でしばらく途絶えていましたが、梶田真章貫主の発願により、できるだけかつての形に忠実に、数年前に法要として復活されたのです。以来、年に一度、廣布薩の法要が営まれています。

鎌倉・臨済宗円覚寺派の円覚寺 横田南嶺管長とのお話にも、「布薩」が登場しました。

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松本さん、私は最近、ウポーサタ、日本語では布薩、これをやりだしたんですよ。ブッダの時代は、満月の晩と新月のときに必ず戒を読み上げて、懺悔をするという習慣がありました。 戒というのは、戒を意識するから反省する、懺悔するわけですね。懺悔のために戒があるといってもいいでしょう。ヴィパッサナー瞑想では、呼吸から意識が逸れることは悪いことじゃない、逸れたことに気づいて戻ることが大切だって、教えるじゃないですか。戒も一緒なんです。戒から逸れること、これはしょうがない。逸れてしまったことに気づいて、もう一度立ち戻る。これが大事なんです。戒があるから歯止めが利くし、抑制が利く。「戒め」というのが、もともと誤訳なんですよ。本当は「習慣」なんです。「習慣」とか「しつけ」とか、あるいは「人柄」という訳し方もあります。要するに、「良き習慣を身につける」というのが、戒のもともとの趣旨ですね。 ある老師さんが僧堂でこの布薩をされているというのを耳にしまして、私は行って教わってきました。ここ円覚寺では、月に二回、一時間かけて礼拝をしながら、戒を一つ一つ読んで勤めます。布薩で何が変わったかといえば、私はこれは別段、目に見えて変わるものではないと思います。こういうのは、じわじわ効くやつですから。でも、やっていることに意味がないということは、決してありません。
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私はこうして法然院の梶田真章貫主と円覚寺の横田南嶺老師から「布薩」のことを教えていただき、とても心が動かされました。尊敬する大先輩方が、「反省会が大事だ」と仰っているわけです。仏道は何かを掴んだりどこかへ到達したりするものではなく、弛みなく歩み続けるものであることを、身をもって示してくださっているのだと思いました。

<戒とは「習慣」である>

戒はもともとパーリ語で「シーラ」と言い、「習慣」「しつけ」と言った意味だったそうです。出家して僧侶になる儀式に「受戒」というものがありますが、それはつまり、仏教で大事にしている習慣を受け入れて守っていく、ということでしょう。戒というと「僧侶が守らなければならない規則」というイメージがあるかもしれませんが、基本的に戒は、他人を裁くためのものではありませんし、裁かれることを恐れて義務的に守るものでもありません。あくまでも、自分のために守るものです。

厳密には戒にも色々な考え方や種類があり、宗派によっても捉え方が変わりますし、僧侶と一般の仏教徒においても守るべきものは異なります。例えば、在家の信者が守るべき戒に「五戒」や「八斎戒」があります。そうしたインド由来の戒が日本仏教にそのまま定着することはありませんでしたが、仏教である限り宗派を問わず、生活を整え良き習慣を身につけることが大切なのは、変わらないでしょう。

なぜ戒を守るのか? タイで出家された僧侶、プラユキ・ナラテボー師は著書で「戒に守られる」ことを述べていらっしゃいますが、なるほど「戒=習慣」と捉えるならば、「習慣に守られる」のは我が身を振り返ってみてもよくわかります。私たち人間は習慣によって作られる生き物です。行動の仕方、言葉の使い方、考え方、どれも幼い頃から少しずつ繰り返し繰り返し自分の習慣として身につけていくものですね。

では、何が「良き」習慣なのか? 仏教の目的を「自他の抜苦与楽」とするなら、「自分も他者もより苦しまず、より幸せに生きられる」のが、良き習慣ということになるでしょう。例えば、お酒やタバコなどは摂取することで一時的に心地よさをもたらしてくれるような気がしますが、繰り返し摂取すると依存が増して健康を害します。考え方の習慣もそうです。何か思い通りにならないことがあるとき、他人や自分を責めることを繰り返していると、思考パターンが習慣として定着して、心を病むこともあるでしょう。良き習慣を身につけることは、依存や思考停止とは違います。良き習慣が身につけば、その習慣が心身の健康を守ってくれます。

心身の健康だけではありません。今、地球環境の危機がかつてないほど高まっています。そしてそれは、差別や暴力など人間を取り巻くあらゆる環境に及びます。自他の抜苦与楽は、言い換えると、私たち一人ひとりが自分も他者も地球も持続可能な良き習慣を身につけ、その良き習慣が社会全体に広まって慣習として定着することでもあります。そう考えると、私たち一人ひとりが良き習慣を持つことは、地球の健康を守ることにもつながるはずです。

仏道の目的が「自他の抜苦与楽」であるなら、自己も他者も地球も苦しむことなく、将来に苦が生まれる種を蒔くこともない、そのような習慣を身につけ保つことが、仏道の始まりになるでしょう。

釈尊の言葉で、お話を締めくくりましょう。

生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってはバラモンともなる。 (スッタニパータ)

布薩ミーティング

毎月の新月か満月の夜

20:00-21:30に開催されます。

その日の導師を勤めるゲスト(僧侶)をお迎えし、オンラインで集う機会です。冒頭で導師をご紹介し、導師の読経と法話を聞かせていただいた後、3~4名の小グループに分かれて、日々の生活を振り返りながら気づきを自由に分かち合う対話の時間を持ちます。最後に、全体シェアリングをおこなった上で、その日の布薩ミーティングを閉じます。

  • Time Schedule

    20:00 ゲスト導師による読経と法話
    20:40 ご導師を囲んでのQ&Aセッション
    21:10 グループダイアログ
    21:30 クロージング

「布薩ミーティング」

  • 導師

    11/13
    藤田一照 師
    12/13
    プラユキ・ナラテボー 師
    導師と日程>

フィロソフィー

仏道における学びの基本は
「戒定慧(かい・じょう・え)」の三学です。

「戒」は戒律
生活を整え良き習慣を身につけること

「定」は集中力
心を制御して平静を保つこと

「慧」は智慧
究極的に覚りであり、
自己と世界を正しく見ること

八正道も、大きく括ればこの「戒定慧」に収まると言われ、その8つのうち「正語 正しい言葉を保つこと」「正業 正しい行いを保つこと」「正命 正しい生活を保つこと」が「戒」に当たります。つまり、正しい言葉・行い・生活という習慣を保ち、正しく気づきと集中を保つよう努め励むことにより、正しく物事を見て、考える智慧が生まれるということです。

「中心はどこにでもあり、周辺はどこにもない」中で、自分が自分のど真ん中を生きることが、仏教の言う「中道」です。座標軸を失った近代後の世界で、中道はますます難しく、ますます重要に、ますますクリエイティビティが求められるものとなっています。布薩ミーティングを活動の中心とするこのuposathaが、あなたの「戒定慧」を整え、「中道」を探り続ける場になることを願っています。

発願人・案内人

  • 松﨑香織

    ブッダをはじめとする古の覚者たちの智慧と実践の体系に接続しながら、驚きに満ちたこの世界や「私」の探求を楽しんでいます。私のような人たちや、仲の良い僧侶の皆さんとともに深める場所が欲しいな、とずっと思っていました。このたびご縁が整い、ここuposathaを始めてみます。皆さんとご一緒できることを楽しみにしています。

Q&A

・ひじり的な生き方に共感する人(どこにいても、どんなときも「世界の中にありながら世界に属さない」あり方は、誰にも可能です) ・ひじり感覚を養いたい人(暮らしのリズムや生活習慣を整えて、仕事や家庭など日常的に没入している世界からひととき降りる機会を定期的に得られます) ・ひじり仲間が欲しい人(人生は「独生独死独去独来」と知るひじり仲間と、弱くつながれる場です) など、僧俗を問わずお待ちしています!

仏教の知識を前提としないので心配ありません。布薩導師の法話やメンバー同士の対話の中でご自身の気づきを深めていく場所として、安心して楽しんでいただければと思います。

© uposatha

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